生きていると、ふとした時に二択を迫られることがある。
A定食とB定食のどちらにするか、とか
右と左の道、どっちを使えば速いか、とか
爆弾の青の導線を切るか赤の導線を切るか、とか
選択を迫られる時は結構あると思う。
そんな二択を、私は悉く間違った方ばかり選びがちだ。
A定食を頼んだ後に、B定食にしておけばよかったと後悔するし、右を選んだら左の方が大体速い。
この調子だと、爆弾の導線も青を選んだら正解はきっと赤の方だ。
それくらい間違える。二択なのに八割五分くらいは間違えている実感がある。
思えば、子供の時からそうだった。
クイズでも、授業でも、とにかく何でも外しまくりでここまで来たような気がする。
何故か一番印象に残っているのが、小学校の時の、教室内の係決め。
思い返すとととても懐かしい。
当時は、いきもの係や、図書係、新聞係など、15個前後の係があったような気がする。
私は図書係になりたかった。理由は単純で、楽そうだったから。
考えることは同じのようで、図書係は何人かと競合した。
残っていたのは不人気の保健係だった。
何故不人気だったかはもう覚えていないが、多分面倒くさそうだったから。
結局話し合いでは決まらず、最終的にあみだくじで決めることになった。
結果はお察しのとおり、私は保健係となってしまった。
半年間、決まった係をやらなければならなかったので、私は当時相当なショックを受けた記憶がある。
でも保健係の内容は全く覚えていない。
やっぱり人間の記憶ってよっぽど嫌なことを忘れるようにできてるんだ。記憶ってすごいね。
あとは、テストとかのマークシートでも、四択からこのどちらかだという二択まで絞ってから選んだ方が間違っていたということはよくあった。
社会人になってからもそうだ。
職場の同期との飲み会の幹事決め。
奇しくも決める方法は、あみだくじ。
小学校の微かな苦い記憶が頭を過ぎる。
経緯はいろいろとあり、二択となったあみだくじを選ぶ。
案の定私が幹事となった。
外すの何回目だよと心の中で叫びつつ、二択の呪縛から逃れられない自分を恨んだ。
ちなみに幹事は結局いろいろな理由をつけてやらなかった。シンプルにごめんなさい。
こんな感じで、私の二択外しは今も冴え渡っている。例えるなら、全盛期の江川のストレートくらい。
ギャルゲーだったら多分バッドエンディング一直線だ。一生クリアできる気がしない。
どうしてこうまで外してしまうのだろうか。
そういう運命なのか。
はたまた、詰めが甘いのか。