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普通の人間のように振舞っている自分が気持ち悪い

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いつも普通を演じている。

 

職場でも、外出時でも、電話でも、冠婚葬祭でも、社会生活上の、人と接するあらゆる機会で普通であるように振舞っている。というより、振る舞うことを余儀なくされていると言ったほうが正しいかもしれない。

 

出る杭は打たれる。正にこのことわざのとおりで、目立った行動や振る舞いをすれば、周囲から目をつけられ、煙たがられる。

 

普通にしていなければ、社会から抹殺されかねない。

 

それが恐くて真っ当な人間として振舞っている。

 

しかし、心の中は全く真っ当な人間のそれではない。

 

社会性を保つための行動をしている時、いつも心の中で気持ち悪さと違和感を抱いている。

 

とても気持ち悪い。

 

大して興味もない話を聞いている時に相槌を打っている自分。

 

全く面白くもない話を聞いて愛想笑いしている自分。

 

やりたくもないことを、さも自らすすんでやっているようにみせている自分。

 

すべてが気持ち悪い。反吐がでる。

 

本当は、そんなこと微塵もしたくないし、何なら全部ぶっ壊してやりたいとさえ思っている。

 

興味のない話や面白くもない話には「つまんねえんだよ」って言って終わらせてやりたいし、やりたくないことはその通りやらない。

 

そう心の中で強く思っているからこそ、尚更自分の行動が苛立たしい。

 

それと同時にそんな自分自身を俯瞰しているもう一人の自分がいて、そいつが嘲笑している。

「なに普通ぶってるんだよ」と。

 

「こっちだって、こんなことやりたくてやってるわけじゃないんだ」と反論したくなるが、いくら反論したとて、内なる自分に勝てるはずがない。

 

当たり前である。内なる自分こそが本当の自分であり、普通に振舞っている自分が偽りの自分なのだから。

 

嘘をついたら必ずボロが出る。だからおそらく、どんなに社会的に振舞っていようと、周囲には多少の差はあれどバレているのだろう。

 

じゃあ、バレているのであれば思うままに行動すればいいだろう

 

と言うと、そう簡単にはいかない。

 

バレているとて、我がままに行動すれば、大っぴらに自分が社会性の無い人間だとアピールしているようなものだ。

 

多少バレていても、それを隠すように振る舞うのであれば許される部分は大いにある。

 

おそらくそれは、多くの人がそうだからだ。そう感じつつも我慢して社会的に振る舞っているから、他人がそうであっても許せる。

 

それは一見すると良いことである気もするが、ある種恐ろしいことだ。

 

自分がそうなんだから、他人もそうあるべきだという考えが生じる。

それはいつからか社会通念となり、そうでない者は''異物''として排除されることになる。

 

協調性なんて言い方をすれば聞こえはいいが、実際は排他的なだけだ。誰だって排除されたくない。だからこそ皆躍起になって普通の人間を演じている。

 

これからもその社会通念に縛られ続けて生きていかなければいけないのかと思うと、毎朝起きるのが憂鬱で仕方がない。

 

睡眠時間のキャリーオーバーをしたい

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寝ても寝ても寝足りない。

 

休日平日問わず、365日ほぼそんな感じで生きている。

 

どちらかと言えば平日の方がその色が強い。

 

特に朝起きた時なんかは最悪だ。

 

毎朝携帯のアラームに無理矢理起こされ、不機嫌なまま支度をする。

 

車に乗るために玄関から外へ出た時ぐらいにようやく、ちゃんと目が覚める。

 

しかし、いざ出勤して、さて仕事だとなってから1時間経たないくらいで徐々にまた眠気がやって来る。

 

眠気とは言っても、睡眠時無呼吸症候群の人のようなどうしようもなく眠いというものではなく、寝てもいいなら寝てやろうくらいのものだ。

 

言うまでもなく寝てはいけないのだが。

 

 

職場で寝ていい人なんかいないのだ。誰も寝てはならぬ(トゥーランドット)。

 

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最近

 

睡眠時間をキャリーオーバーできたらいいのに。

 

なんてことをよく思う。

 

寝溜めした日の睡眠時間相当の体力を、短い睡眠時間になってしまった日に充当したい。

 

そしてなるべく毎日フラットな体力になるようにしたい。

 

例えば、毎日の睡眠時間が平均7時間になるように、8時間眠れた日の1時間分を、6時間しか眠れなかった日に振り分けできたら最高だ。

 

そうなれば、毎日一定のリズムで過ごせるようになるはずだ。

 

もしそれが可能なら私はきっと今以上に休日は寝て過ごすだろう。

 

元来私は出不精なので、休日は格好の寝溜め日だ。

 

よく

 

「せっかくの休日なのに寝て過ごすなんて勿体無い」

 

みたいなことを言ってくるアグレッシブヒューマンがいるが、そう言われたら、適当な愛想笑いでかわすようにしている。

 

私からすれば、休日こそ誰にも邪魔されずいつまでも寝ていられる特別な日なのだ。

逆に早く起きる方がむしろ勿体無いと思っているくらいだ。

 

なんて思っているが、そんなことを口に出したら、暇なやつだとか、寂しい人間だとか勝手な事を思われそうなので絶対に言わないようにしている。

 

睡眠時間のキャリーオーバーができるのであれば、休日はおそらく15時間くらい眠るだろう。

 

毎日7時間睡眠にしたいので、15時間眠れば8時間余剰分ができる。

 

土日の二日間で16時間稼げることになる。

 

そうすれば、月曜から金曜までは4時間睡眠で事足りることになる。

 

それなら、残業して帰ってきても自分の時間はまだまだあるし、終業後に遠出もできる。

 

嗚呼、なんて素晴らしいことだろうか。

 

 

なんて妄想をしているだけで楽しいのだから、世話がない。

 

いっそのこと、妄想の中で生きていたいものだ。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

沢田研二のドタキャンは独りよがりだ

歌手の沢田研二(70)がさいたまスーパーアリーナで開催予定だった公演を急遽中止にした。

 

何でも、中止にした理由は「動員に関する契約上の問題」だという。

 

その内容は、9000人とイベンターから聞いていた集客状況が、実際は7000人であったとのこと。

 

当の沢田は、「客席がスカスカの状態でやるのは酷なこと。ライブをやるならいっぱいにしてくれ、無理なら断ってくれ、といつも言ってる。僕にも意地がある。」と語っている。

 

普段私は、芸能ニュースにはほとんど興味を持たないのだが、このニュースを見た時、苛つきとともにとてつもない不快感を抱いた。

 

公演中止を「意地」と一言で終わらせるのは如何なものか。

沢田自身が取材に応じている映像を何度か見かけたが、何度見てもその日会場に来ていた客に対しての謝罪が無い。

少しでも申し訳ないと思っているのであれば謝罪の一言くらいは自然と出てくるはずだ。

 

自分の歌を聴くために集まってくれた人々。

その日の仕事を休んで来た人。その日来るために仕事を頑張って調整した人。その日を指折り数えて楽しみにしていた人。形は違えど、その日を特別な日と認識して過ごして来た人々の思いを見事に踏みにじった。

 

その人々を足蹴にするような行動は、ファンのみならず、ニュースを見た多くの人に失望と不快感を与えることとなっただろう。

 

彼は目の前の客のことなど微塵も見ていない。

彼が見ているのは人数という数字だけだ。

人数が集まればライブをやってやる、と言っているようなものだ。自惚れている。思い上がりもいいものだ。そんな自己満足なライブなど、やっていることはジャイアンリサイタルと大差がない。むしろ金を取っている分、それよりタチが悪い。

 

今回の公演の振替公演を予定しているらしいが、どうだろう。彼の本性が明るみに出た今でも、公演を見に行きたいと思う人はそれほどいるのだろうか。

今回の7000人どころか、その半分も集まるか怪しいところではないだろうか。

そうなれば、今回のように、またその公演も中止にするのだろうか。

 

そんなことをしていたら、雪だるま式に不満は増大していくのとは反比例し、ファンの数もどんどん縮小していくことは間違いない。

 

最後の猶予として、少しでもファンの事を考えているというのであれば、チケットの払い戻しを考えるべきだろう。それがせめてものファンへの謝罪と誠意だと思う。

 

自分で自分の株を大暴落させるスタイルには感服した。

まさか今になって炎上商法を始めたのだろうか…?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一生懸命に取り組める何かが欲しい

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人間というのは怠惰なもので、何か目標や目的がないとすぐにダラけてしまう。

 

人間というのは、と言ってしまうとまるで私が自分自身を人間の代表としていて驕っているようになってしまうので、「私は」としておきたい。

 

私は明確な目標が無い時は、無益に時間を浪費するスペシャリストだ。

 

その時間に生産性なんて全くない。

 

あるものと言えば、「無」という概念だけだ。

 

無が有るという概念はおかしくないか?

 

なんて、半ば禅問答のようなことを考えてしまうくらいには無だ。

 

だから常に何か一生懸命に取り組めることが欲しくて仕方がない。

 

無になってしまう時間がこわい。

 

時間は刻一刻と過ぎていくのに、自分の時間だけが止まってしまっているような、浦島太郎みたいな感覚になるのが嫌いだ。

 

何ならいっそ桐谷健太の代わりにauのCMに出てやりたいくらい浦島太郎めいている。

 

そんなことはさておき、切実に何かが欲しい。

 

集中できる何か。

 

時間を忘れられる何か。

 

楽しい何か。

 

その何かしらを見つけられれば、私の生活は劇的に潤いで満ち溢れる気がする。気がするだけかもしれないが。

 

そのことだけを考えて他の事は全て忘れてしまうくらいになれたらどんなに楽だろう。

 

そんなことを思いつつ、今日も無益に時間が過ぎる。

 

嗚呼、諸行無常

 

 

 

 

 

夜、なるべく遅くまで起きていようとする

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寝る前の静けさが好きだ。

 

私が住む場所は田舎だからかもしれない。

 

田舎とは言っても、周りが田んぼに囲まれていて見渡す限り山、のような田舎ではない。

 

きちんとした住宅街ではある。

 

そんなの田舎じゃない。いいか、田舎ってのはなあ………

 

と鼻息荒く説教を垂れようとしている人がいたら形式上謝っておきたい。

 

とりあえず夜は特に静かだということだ。

 

そのせいもあってか、眠りにつくのが惜しいと感じる時が多々ある。

 

寝るとすぐ朝になる。それが悔しい。

 

仕事して帰ってきて風呂入って飯食って寝るだけの生活なんて、大学生の頃絶対あんな風にはならないぞって誓った、その“あんな風”の典型じゃないか。

 

仮に8時間寝ようが10時間寝ようが、朝起きた時に、あまりぐっすり眠れた感覚がほとんどない。

 

それならば、なるべく遅くまで起きているほうが得した気分になれる。

 

とは思ってはいるものの、起きていても特にこれといって有意義なことをするわけではない。

 

ただ何となく起きていて、ただ何となくネットサーフィンしているだけなことが多い。

 

大体は、眠いのに眠りたくないと意固地になって起きている。

 

その結果として案の定、次の日の目覚めが悪い。

 

そしてその度に、昨日もっと早く寝ればよかったと、後悔する。

 

しかしその日の夜になったらそんな後悔はどこへ行ったか、またなるべく粘って遅く寝る。

 

お前は馬鹿なのか、と毎度毎度思うのに過ちをいつも繰り返すのだからきっと私は馬鹿者だ。

 

また、これも馬鹿者の感じることの一つなのかもしれないが、「眠い」と「眠くない」の間が好きだ。

 

体がふわふわするあの感覚がたまらない(変な薬物に手は出していない)。

 

一瞬意識がなくなって、はっとして目が覚めての繰り返し。

 

片肘をついて横になりながらテレビを見ていたお父さんが眠っているようだったのでテレビを消すと、今見てるんだから消すなよ、って言い出すあの感じ。

 

あのお父さんの気持ち。

 

とても分かる。分かりみが深い。

 

あれも多分意識と無意識の間を行ったり来たりしているのが気持ち良いんだ、きっと。

 

 

 

なんてくだらないことを長々と、つらつらと、徒然なるままに書いている今この瞬間もまあまあの睡魔に襲われている。

 

意識と無意識を行ったり来たりしているので、正直、後で読み返したら意味不明な文章になっているかもしれない。

 

でもそれでもいいんだ。

 

無意識でも文章を書けるなんて天才じゃないか!

 

なんて思っている。

 

 

………やっぱり私は馬鹿者だ。

 

 

 

 

心は満たされない方がいい

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<満足>

心にかなって不平不満のないこと。心が満ち足りること。また、そのさま。

(デジタル大辞泉より)

 

皆が満足を目指す。

 

なぜか。

 

理由は単純で、満足は心地良い。

 

満足すればそれ以外に必要なものは無いし、皆が満足すれば争いごとも不快なことも起こらない。

 

だから皆が満足を目指す。

 

しかし、満足は必ずしも絶対的に良いことだとは限らない。

 

多少の不満があるくらいが、丁度いいのかもしれない(あまりありすぎるのも困りものだが)。

 

なぜなら、満足するとそれ以上のことを考えなくなってしまうからだ。

 

「満足」というのは、様々な感情のピラミッドの頂点に位置するものだ。

 

満足してしまうと、それより更に上を目指すということをしなくなる。

 

当たり前だ。満足が最高峰なのだから。

 

不平不満があるということは、要するにそれだけ改善の余地がある、伸びしろがあるということだ。

 

よくCMなんかで、顧客満足度を円グラフで表しているのを見かける。

 

それで大抵満足が90%前後で、残りの数%が不満だというものになっている。

 

ふと思ったが、これは視聴者に対しての

 

「残りの数%の不満もいつか満足に変えるための取り組みを行っていますよアピール」

 

も含まれているのではないか。

 

だとすれば、あざとい。

 

女子で言ったら「小悪魔系」タイプだ。

 

………

 

話は少し逸れたが、まとめると満足はしないほうがいいということだ(まとまってない)。

 

食事だってよく「腹八分目」と言われるし、さっき例に挙げたアンケートだって満足度100%より90%くらいの方がなんか信用できる。

 

マー君だって、2013年の24勝0敗よりも、2011年の19勝5敗のほうが現実感があるし、そっちのほうがなんかエース感も強い。

 

満足なんてスケールで測れるものではないし、満足だと思っていたら実はまだ本当に満足していなかったなんてこともザラにある。

 

結局本当に満足している人なんていないのか。

 

だから度々、様々な分野でブレイクスルーが起こるのかもしれない。

 

またまだ成長できるということか。

 

 

 

 

 

一戸建てを購入するリスク

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「夢のマイホーム」

 

一軒家を建てることが、世間的には人生のステータスの一つとして認知されている。

 

所帯を持ち、養っていくと聞くと、マイホームの購入が最初の方に浮かぶ人も多いと思う。

 

確かに、私もこれまでそういうイメージを持っていた。

 

しかし、それはメディアによるイメージの植え付けだと感じる部分がある。

 

また、実際に一軒家を建てるということを想像してみると、世間のイメージ通りにそれほど楽観的に考えていいものではないと思った。

 

そう思った具体的な2つの理由について、詳述したい。

 

目次

 

 

 

1.住宅ローンのリスク

 

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住宅ローンは今では、長期固定金利住宅ローンである「フラット35」が主流となっている。

 

文字通り、35年間固定金利でローンを支払う形のものだ。

 

一見、ローンを組めば決まった金額を毎月払っていくことになるので安定しているように感じるかもしれない。

 

しかし、そもそも長期間に渡ってローンを組むこと事態リスクが大きいのではないか。

 

その理由は、必ずしも安定した収入を得続けられる保証が無いことによる。

 

不況に陥った場合、一般企業に勤めている人であれば、会社の経営状況悪化に伴い、人員削減の対象になることや、給料の減少等が予想される。

 

また、例に挙げたフラット35に関しては、市場の金利が下がっても金利が固定なので、高い利率を支払い続けなければいけないリスクも孕んでいる。

 

また、下の記事では、35年間で、500万円以上の利息を払うことになるという計算がされている。

 

これで言うと、年間14万円以上も利息で取られることになる。

 

shokonoaruie.com

 

 

2.ご近所トラブルのリスク

 

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これは下手をすると、住宅ローンを組むことよりもリスクが高いかもしれない。

 

団地の一等地に新居を構えても、周囲に迷惑な人や変な人がいたら台無しだ。

 

購入する前に調べれば良いだろうとの意見もあるかもしれないが、いくら入念に調べるとはいっても、一日中その周辺を見張っているわけにもいかない。

 

中でも、最近多い、コの字型の造成地は注意が必要だ。

 

いわゆる“道路族”だ。

 

matome.naver.jp

 

ネット上で度々見かけるのは、袋小路になっている道路部分で、ボール遊びやかけっこ、場合によってはバーベキューまでするような親子がいる。

 

そうなると、騒音や敷地内に勝手に入られたりと、注意したくても中々注意できない事態を我慢しなければならない。

 

上記はあくまで一例である。

 

みんながみんな、そんな人ばかりでもないだろう。

 

とはいっても、こればっかりは実際にその土地に住んでみないと分からない部分が多い。

 

しかし、住んでから良し悪しが決まるなんて、まるで丁半博打のようではないだろうか。

 

今後の人生を棒に振る可能性もあるので固定資産はあまり積極的には持つべきではないと思う。

 

 

共同住宅のすヽめ

 

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一戸建てには上記2つのリスクがあるため、生活を営むのであれば、アパートやマンションといった共同住宅がベストな選択であると思う。

 

確かに、共同住宅こそ、隣人の騒音等の近所トラブルが起こることがあるかもしれない。

 

しかし、何と言っても、トラブルが起こった際にすぐ引っ越すことができるのが魅力だ。

 

また、トラブルが起きた場合、管理人に申し出て助けを求めることができる。

 

これがもし一戸建てであれば、何かあっても一定期間、場合によっては一生耐え続けなければいけないこととなるかもしれない。いずれにせよ、自己解決する必要がある。

 

また、ローンを組むことがないというメリットは、単純に金銭的な不安の払拭のみならず、精神的な解放感もまたあるだろう。

 

 

以上のように、総合的に見て一戸建ての購入はコストパフォーマンスが低いと思った。

 

もちろん、決して一軒家を持つことが悪いと言っているわけではない。

 

実際に一軒家を持っている人については、それ相応の覚悟と安定性があるということなので、それについてはとても尊敬している。

 

あくまで、自分が購入することとなった場合、前述の2つのリスクがネックになると思い、この記事を書くに至ったということを申し添えておきたい。