よく「他人に興味が無さそう」と言われる。
日常的に会う人から言われるのであれば仕方ない気もするが、2,3度くらいしかあったことのない人からもそう言われる。
いや、初対面の人にも言われたことがある。
なぜなのか。
そんなにあからさまにそれが態度に出てしまっているのであれば、今は上手くやっている(つもりだ)が、この先の社会生活で不具合が生じかねない。
それはマズい。何とかしなければならない。
では、どうすればよいのだろうか。
そんなことを毎日のように頭の中で反芻する日々が何年か続いたある日、ふと疑問に思うようになった。
他人に興味が無いのはそんなに悪い事なのか。
そもそも、本当に他人に興味のある人間なんているのだろうか。
私自身は、冒頭のような言葉を浴びせられるような事が多々あるので、自分は他人に興味がある人間だなんてお世辞でも言えない。
もっと言うと、私は他人から興味を向けられることがあまり好きではない。いや、好きではない。嫌いというとニュアンスが異なってしまうので、好きではないという言い方が一番近い。
自分に対して他人が興味を持って接してくるのが“怖い”のである。
なぜ“怖い”のか。その理由は単純だ。私は私自身に対してもあまり興味が無いからだ。
つまり、自分自身の事をあまりよく知らないのだ。
人間はあまり知らないことに対して追求されると怯んでしまう。よほどのホラ吹きか変わった人以外は。
その怯むという現象が起こるのである。他人が私に興味を向けている時に。
興味を向けてくるということは、その向けた先に何らかの熱量があると期待しているに違いない。しかし、生憎私は私自身についてよく知らない。言うなれば、熱量が極端に少ないのだ。
田舎から一度も出たことがない人が「東京の魅力について語ってください」と言われているのと同じだ。分かるはずがない。
そんな時、私は大体生返事をしたり、愛想笑いをしたり、別の話題に移ったりと、そのような感じで毎回乗り切っている(いや、全然乗り切れていない)
そうなると大抵変な空気になる。
言われずとも分かる。
「(この人話つまんないな)」
とか
「(もしかしてあんまり人と話したくない人なのかな)」
なんて思われているはずだ。
前者は合っている。実際私の話はつまらない。傷つきたくないのであまり自分を客観視することは避けているが、控えめに言って、自分をぶん殴りたくなるくらいだ。
しかし、後者は違う。私は話をするのは好きだ。いろいろなことについて話をしたいと思っている。スポーツの話題とか、ニュースの話題とか、芸能人の不倫とか。そう、私自身についてのこと以外であれば。
自分に対して向けられる興味にこんな感じになってしまうのだから、他人に興味を向けられるはずがない。
何というか、自分に出来ないことを他人に強いるようなことをしているようで、気が引けてしまうのだ。
上手くまとまらないが、とりあえずまとめてみると、結局全ては私が私自身をこれまで野放しにしてきた無責任さと、生来の卑屈さの代償なのだ。今更どうしようとしたところで時すでに遅しというわけだ。